今回は三谷先生にご寄稿いただきました。
今年のノーベル経済学賞(正式にはアルフレッド・ノーベル記念経済学スウェーデン国立銀行賞)は、デービッド・カードとヨシュア・アングリスト、グイド・インベンスの3氏に授与されることとなった。いずれもアメリカの経済学者である。経済学における「自然実験」を使った実証研究及びその分析手法の研究が評価された。
経済学では従来理論研究が高く評価され、実証研究は一段低く見られる傾向があった。しかし、1990年代頃から多くのすぐれた実証研究が発表されるようになり、状況が一変している。その背景にはIT化の進展等により質の高いデータが蓄積されて来ていることもあるが、それよりも経済社会現象の因果関係を実証的に明らかにする革新的な手法が用いられるようになったこと(信頼性革命)が大きい(Angrist and Pischke (2010))。「自然実験」もそうした手法のひとつである。
経済学では自然科学のように実験をすることができない。実験ができる場合でも政治的倫理的な問題があって実施できないことが多い。従来の実証研究では、代わりに高度な統計的手法を用いて他の要因をできるだけコントロールし、調べたい要因と結果の間の因果関係を明らかにしようとした。しかし、計量モデルが複雑化し、コントロールも十分でなく、信頼性が必ずしも高くなかった。一方、経済社会現象には歴史の偶然によって、あたかも研究者が行いたいような実験が行われるのと同じ状況が生まれることがあり、それを「自然実験」として利用できる場合がある。
「自然実験」を利用した例として最低賃金に関するカードとクルーガーの研究が興味深い(Card and Krueger (1994))。最低賃金は法的にそれを下回る賃金で労働者を働かせてはならない最低の賃金である。最低賃金をめぐる議論では、最低賃金を引き上げると若年労働者や不熟練労働者の雇用が減少するかどうかが大きな論点である。理論的にはどちらもありうる。労働市場が完全競争であれば、最低賃金の引き上げは雇用を減少させる。一方、買い手独占(労働市場に企業が一社しかない場合)であれば雇用を増加させる。かつては労働経済学者や政策担当者の大半は最低賃金引き上げが雇用に負の影響をもたらすという説を支持していた。
アメリカでは州ごとに異なる最低賃金が設定されることがある。ニュージャージー州とペンシルベニア州は隣接しており、経済構造も似通っている。1992年にニュージャージー州の最低賃金(時給)は4.25ドルから5.05ドルへと80セント引き上げられたが、ペンシルベニア州では4.25ドルのままで変わらなかった。カード達はこの出来事を「自然実験」ととらえて最低賃金引き上げが雇用に与える影響を分析した。最低賃金の引き上げ前と引き上げ後の2時点におけるファーストフード店で働く労働者の数(雇用)を調べた。そして、これらふたつの州における雇用の増減を比較した。すると、最低賃金を引き上げたニュージャージー州の雇用の変化(=2時点間の雇用の差)から最低賃金を据え置いたペンシルベニア州の雇用の変化(=同じ2時点間の雇用の差)を差し引いた「差の差」(=相対的な雇用の変化)がプラスであった(表1)。ペンシルベニア州での雇用の変化は最低賃金とは無関係な景気変動などの他の要因によるものであり、これらの要因は経済構造のよく似たニュージャージー州の雇用にもほぼ同様な影響を与えたと考えられる。したがって、上記の結果は、最低賃金引き上げ以外の要因の影響を取り除いて、純粋に最低賃金引き上げが雇用を増やしたという因果関係を示している。
表1 雇用者数(1店舗当たり平均、フルタイム換算) (単位:人)
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ニュージャージー州
(最低賃金引上げ)
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ペンシルベニア州
(最低賃金据え置き)
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事前(1992年3月)
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20.4
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23.3
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事後(1992年12月)
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21
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21.2
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△ (事前と事後の差)
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0.6
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-2.1
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△△(差の差)
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2.7
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出所)Card and Krueger (1994).
この研究は最低賃金の引き上げが不熟練労働者の雇用に負の影響を与えるという「常識」をみごとに打ち破ったという意味で大変重要である。そして、その後の最低賃金をめぐる議論に大きな影響を与えた。
「自然実験」を用いた分析は簡明で強力な手法であるが、「自然実験」自体を見つけることはたやすいことではない。しかし、このような革新的な手法を用いた実証研究(信頼性革命)は様々な経済学の分野、とりわけ労働経済学や教育経済学、開発経済学[i]などで大きな成果を上げている。そして、経済学が単なる机上の空論ではなく、実際に人々の暮らしをよくするための実践的な学問としての役割を果たすことに寄与している。
ちなみに、岡山商科大学では経済学部の経済データサイエンスコースの科目を中心に、実証分析の方法やデータの扱い方を楽しく学ぶことができる講義や演習が多数用意されている。カム・カム・エヴリバディ!
(経済学部 三谷)
【参考文献】
Angrist, J., D. and J.-S. Pischke (2010),”The Credibility Revolution in Empirical Economics: How Better Research Design is Taking the Con out of Econometrics,” Journal of Economic Perspectives, Volume 24, Number 2, Pages 3–30.
Card, D. and A. B. Krueger (1994), Myth and measurement: the new economics of the minimum wage, Princeton University Press.
アビジット・バナジー==エステール・デュフロ (2012)『貧乏人の経済学―もういちど貧困問題を根っこから考える』山形浩生訳、みすず書房.
[i] アビジット・バナジーとエステール・デュフロは主に「実験」を用いた途上国の対貧困政策の実証研究で、2019年のノーベル経済学賞を受賞した(アビジット・バナジー==エステール・デュフロ (2012))。