〈経済学部通信〉文章を正しく解釈するということ

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今回は池田先生にご寄稿いただきました。


5月末の休日に対面での国内学会に参加しました。2020年からしばらくオンライン開催でしたので,私が本学に赴任して以来になります。久々に大学院時代の先輩や後輩,学生時代に懇意にして頂いた先生方とお会いすることができ,嬉しさを感じるとともに,自身の立場の変化を改めて認識する機会にもなりました(通常であれば教員として就任した年の学会で,色々とお世話になった先生方に報告を兼ねたご挨拶をするものかと思います)。

社会経済史学会第92回全国大会@西南学院大学

今回参加した学会のなかで,ある報告をきっかけにひとつ気になったことがありますので,ブログを通じて皆さんと共有できればと思います。

 

ある学者の研究発表について,内容はさておき非常に細部にわたり分析がなされていました。歴史史料に記述されている言葉に対しては,それがどのような社会的立場の人が記した(発言した)ものなのか,どのような社会背景のもと,どのようなことを意図して書かれたものなのかなどなど,様々な点に注意を向けなければなりません。当時の社会や政治,経済,文化がいかなるものであったのかを理解してからその言葉の意味を捉えないと,誤読してしまいかねないからです。むしろこれらの作業を経て,ようやくその記述の意図するところがきちんと理解されるといえます。その報告はこれらの分析が素晴らしく,非常に説得的でした。さらに,そこから浮かび上がった社会経済問題は優れた数量分析の解釈に利用され,45分という時間があっという間と感じるくらい圧巻の報告でした。見習わなければ,と痛感した程です。

 

数日経って岡山に帰宅し,ふとした瞬間にSNSをひらくと,とある投稿が炎上していました。今となっては日常としてある風景なのかもしれません。ただ気になったのは,その投稿にあるコメントが酷かったことです。投稿者の意図とは全く違った形で解釈がなされ,それをもとにして罵詈雑言を浴びせていました。そのようなコメントを数件目にして,少し心が痛み,そっとスマホを横に置きました。

 

今となっては我々の日常によくあることで,ひょっとすると自分もそのような環境に慣れてしまっているのかもしれません。それでも,学会を経てから,相手の意図する言葉と違うように(勝手に)解釈しそれに礼節のない批判を展開するSNSに,嫌気がさしつつあります。

 

すべての投稿に対して,投稿者が何を言おうとしているのかを考えることは不可能ですし,そんなことをしようとする人もいないでしょう。それでも,少なくとも自分が(肯定的であれ否定的であれ)リプライをする場合には,必要に応じて投稿者の意図するものを汲み取る(汲み取ろうとする)姿勢を持つべきですし,顔見知りでもない人へのリプライであればその姿勢をも見せる必要があると思います。それこそが相手の発話に応じるときに示すべき最低限の敬意だろうというのが,私自身の考えです。

 

これまでの大学教育においても,そのような作業を行う訓練は初年次から行われてきました。文章の要約や指定図書の輪読などは,専門性を涵養する作業であると同時に,文脈をきちんと理解する作業にもなります。しかしながら,決してそれが活かされていない現実社会が広く存在するのも事実です。数量的ではない,いわゆる定性的分析への教育が十分にできていないのかもしれません。

 

知らない人にも簡単に,しかも匿名で言葉を投げかけられてしまう世の中です。「SNSの使い方」に留まらず,多様にある意見がどのような文脈で出てきたものなのか,発言・投稿された言葉の意図はどこにあるのだろうか,ということに対して意識的に考えることの重要性を,改めて認識すべきなのでしょう。

 

そのために教育現場として何ができるだろうか。専門的な教育に加え,いま世の中に必要とされているモラルや多様な考えとの付き合い方をどのようにして学生に伝えることができるのか。

 

果たして,自分自身はそのような社会とうまく付き合えているのだろうか。

 

学会へは研究者として参加することが普通ですが,今回は教員として大きな課題を投げかけられた学会となったようです。

 

大学生のメッセージというよりは,教育に携わる私への自戒としてブログに取り上げさせて頂きました。幸いなことに,このブログは大学関係者だけではなく様々な方々からもご覧いただいているようです。ご意見などございましたら,ご自由にコメントを残して下さいますと幸いです。

(経済学部 池田)

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